南谷健太
森・濱田松本法律事務所 弁護士
南谷健太
森・濱田松本法律事務所 弁護士
弁護士(第二東京弁護士会所属)、公衆衛生学修士(MPH)。東京大学経済学部経済学科卒業、慶応義塾大学法科大学院修了、ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了、スタンフォード大学ロースクール修士課程修了。労働法・ヘルスケア等、人々の健康に関わる幅広い分野の法律問題を取り扱う。また、パブリックヘルス(公衆衛生)やプラネタリーヘルスの概念をビジネスセクターや法曹界に広めるべく、情報発信や講演等の実施、政策提言への関与など、多方面で活動。著書に『労働事件ハンドブック改訂版』(共著、2023・労働開発研究会)、『ヘルステックの法務Q&A[第2版]』(共著、2022・商事法務)等多数。2022年~2024年に人事労務分野でThe Best Lawyers in Japan: Ones to Watchを受賞。
Chapter 2-2:ハーバード大学公衆衛生大学院(後編)
千代谷
米国と日本では保健医療システムが異なるので、例えば日本の保健医療システムについてより深く学びたいという人だったら日本の公衆衛生大学院がいいかもしれないですね。
南谷
それはあると思います。ただ、日本の公衆衛生大学院で医療政策を深く学べる授業がどれくらいあるのかは事前に情報収集する必要があると思います。そのようなカリキュラムがあれば、その観点においては日本の方が良いかもしれませんね。
私はハーバード公衆衛大学院でヘルスポリシー(医療政策)を専攻したのですが、この専攻に限って言えば学生の8割超がアメリカ人で、留学生はアウェーな雰囲気でした。当然そうなるとカリキュラムの内容もアメリカの保健医療システムに関するものが中心になってきます。そのため、アメリカの政治や保健医療システムにある程度の知見があることを前提に議論が進められることもありました。
例えば、アラバマ州のパブリックヘルスの問題を考える際、他の生徒たちにはアラバマ州のイメージが念頭にあって、その上で議論を行えるのですが、私にとってはアラバマ州がそもそもどこに位置しているのか、人種構成がどうなっていて共和党支持のレッドステートなのか民主党支持のブルーステートなのかといった基本的な情報からインプットしていかないと本質がつかめません。
私にとっては、医療政策そのものに関する多くのインプットができましたし、アメリカの医療政策を通じて日本の医療政策を相対的に見ることができ、大きな価値があったと思います。ただ、アメリカのことばかりでガッカリしてしまう人もいるかもしれません。
千代谷
南谷さんにはヘルスケア法務の業務経験から得た知識もあったでしょうし、米国でパブリックヘルスを学んで日本の保健医療システムを相対化してみることができたのかもしれないですね。
南谷
それはあると思います。そういっても弁護士は法制度を中心にアドバイスをするので、医療システムの全体については、日頃の実務の中だけではインプット不足の部分があると思っていました。
インプットとしては、医療経営士という資格試験の勉強が役立ちました。公衆衛生大学院受験に当たり、基礎的な知識を得るために受験したのですが、医療計画や医療圏の話、医師偏在の問題など、保健医療制度を巡る一般的な知見や社会問題を一通り学ぶことができたと思います。ヘルスケア法務の実務から得ていた知見がより深まり、新たな気づきも得られたので個人的にはオススメな資格です。
千代谷
新たにパブリックヘルスの分野に実際に飛び込んでみてどのようなことを感じましたか?
南谷
法学と公衆衛生学は非常に距離が近く、接点も多くあるエリアだと感じました。アメリカのロースクール・公衆衛生大学院では公衆衛生法(public health law)の授業を設けているところが多くあります。しかも、単に実務家講師を読んでいるのではなく、法学と公衆衛生学双方で学位を取っている研究者が教鞭を取っている学校が多いように感じました。こうした、法律とパブリックヘルスを結びつけて考えようといった動きやそれを専門にしている研究者がいること自体、個人的には大きな驚きでした。また、パブリックヘルスを学んで実務へと戻っていく弁護士もおり、弁護士とパブリックヘルスの2つのキャリアの掛け合わせの可能性を感じました。
また、パブリックヘルスの学問としての幅の広さも実感しました。医療政策や医療経営といった社会科学寄りのものもあれば、疫学や定量分析をゴリゴリやるような自然科学寄りの専攻もありますし、両者を融合させたようなもの、例えば社会疫学や栄養疫学、産業衛生、環境疫学もあります。特に、社会疫学では、社会経済的なステータスが健康にどのような影響を与えるのかを探求するため、社会学や都市工学、教育学のような他分野とのコラボレーションの可能性を感じました。本当に幅が広く、日本において疫学や感染症といったイメージのみで捉える方が多い現状に、改めて本当にもったいないなと感じています。
医師や官公庁の方々が得られた学びを日本に持ち帰って臨床の現場や政策面でどう活かすのか、自分の場合は法律の実務やビジネス法務のアバイザーとしてそれどう活かすのか、それぞれ別の持ち帰り方があると思うので、自分なりの役割に気づけたのも大きかったです。
千代谷
米国だとJD/MPHといって法学博士と公衆衛生学修士の両方の学位を持たれて活躍されている方が珍しくないと伺っています。一方、日本ではJD/MPHのデュアルディグリーホルダーは一般的ではないように思います。日本の法曹界ではパブリックヘルスの認知度が高くないのか、あるいは認知はされているもののパブリックヘルスの学位を取得するインセンティブがないのでしょうか?
南谷
基本的には前者ですね。医療従事者の方は、学部時代にパブリックヘルスを学んでおり、国家試験でも受験科目に含まれていることが多いと思うので、知らない可能性は低いと思います。
これに対し、法律家を含めた医療従事者以外の方では、そもそも公衆衛生やパブリックヘルスという単語に触れる機会はゼロに等しいといってよいと思います。そのため、公衆衛生やパブリックヘルスという単語を知らなかったり、公衆衛生=感染症と捉えていたり、疫学、感染症学、公衆衛生学を混同している人が大多数だと思います。公衆衛生大学院に入学する話を周囲の人たちにすると、公共政策大学院と勘違いしてしまう人も結構いました。ヘルスケアやウェルビーイングといった言葉がこれだけ盛んに用いられており、関連するビジネスや政策も多い中で、それを研究する公衆衛生学は、ほぼ存在が知られておらず、そのため関心が向けられていないのが実情だと思います。そもそも、ヘルスケアを学問するのは医学だと思っている人もたくさんいると思います。
また、パブリックヘルスを多少知っていたとしても、その知見を取り入れていく動き自体がまだまだ少ないように思います。法学では、医事法はありますが、薬機法を含めたヘルスケア法一般がまだ学問体系として出来上がっておらず、研究者もほとんどいない印象です。私が日本のロースクール在籍時も、医事法の授業はありましたが、薬機法やパブリックヘルスに関する法律を学ぶ授業はありませんでした。法学と公衆衛生学をかけ合わせていこうという研究者はゼロではないですが、少数にとどまっている印象です。
こうした他分野とのコラボレーションが希薄であることは、公衆衛生学に多様なバックグラウンドの人が入って来ない流れや、研究分野の狭さに繋がってしまうように思います。
千代谷
米国のロースクールではパブリックヘルスに関する法律を学ぶ機会がありますか?
南谷
ロースクールでも公衆衛生法の授業はあります。
少し前にお話をしたCross-Registration制度を使ってハーバードのロースクールのPublic Health Law and Policyというゼミに近いような20人程度の授業を取りました。トピックとして、コロナ禍での対応やHIV、medicareやmedicaidのような公的医療保険、オピオイド問題、中絶の問題など、幅広い社会問題をテーマとしつつ、関連する法制度や政策についてインプットしながらディスカッションするという授業でした。私以外全員アメリカ人で、かつ少なくとも1度は発言しないといけない空気感があり、毎回ついて行くのは非常にハードでしたが、良い経験になりました。最後は、パブリックヘルスに関する法的な問題を取り上げ、政策提言を書き、その内容をパワーポイントでまとめて全員の前で発表する必要がありましたが、ポジティブなフィードバックを多く貰い、自信を持つことができました。
公衆衛生大学院から履修してきた人は2、3人いたんですが、他の学生のほとんどはロースクールの人たちでした。初回の授業で各々自己紹介をしたのですが、地元の州政府の対応、アメリカ全体で議論になっているオピオイドの問題や銃規制の問題、メンタルヘルス問題、そして妊娠中絶の問題など、様々なパブリックヘルスに関する課題意識を持っている生徒が多い印象でした。これは意識の高い学生だけではないようで、例えば、ボストンでUberやタクシーに乗った際、ドライバーに何をやってるんだと聞かれ、パブリックヘルスだと答えると、ほとんどの方が保健医療制度や現在のヘルスケア問題に対する疑問を投げかけてきて、日本との違いを感じました。それだけ、パブリックヘルスを社会問題とリンクさせるだけの認知度があり、それが公衆衛生法の授業の設置にもつながっているように思います。
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Chapter 5:プラネタリーヘルス
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